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●伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(前編) 佐藤憲一
伊達政宗の母義姫(保春院)の最晩年(前編)
はじめに
伊達政宗(一五六七〜一六三六)の母義姫(一五四八〜一六二三)の最晩年はどのようなものであったか。元和八年(一六二二)九月山形から仙台の政宗のもとに帰り、翌年七月亡くなるまでの約一年間の暮らしぶりを、新しい資料などを紹介しながら探ってみたい。
ところで義姫の名前については、手紙や日記など当時の一次資料で確認できない。伊達家の居城米沢城の東館[注1]に住んでいたためであろうか、「お東」「お東様」と呼ばれていたようである。元禄十六年(一七〇三)に編纂された伊達家の正史「貞山公治家記録」(仙台市博物館蔵)には政宗の母として義姫の名が出てくる。ここでは「貞山公治家記録」(以下、「治家記録」と略す)に従って義姫として話を進めていきたい。なお、保春院は諡(おくりな)である。
義姫の願い
文禄三年(一五九四)十一月四日夜政宗の居城岩出山(宮城県大崎市)から山形へ出奔した義姫が二十八年振りに仙台の政宗のもとに帰る契機となったのは、元和八年八月の実家最上家の改易だった。内紛により山形藩五十七万石が幕府によって城地没収とされたのである。三代藩主最上家信(後の義俊。当時十七歳)の時である。家信は義姫の兄義光(山形藩初代藩主。一五四六〜一六一四)の孫にあたる。
改易によって行き場を失った義姫を政宗は幕府の許可を得て仙台に引き取る。それは母義姫の希望でもあった。元和八年九月六日義姫が政宗の家臣片倉小十郎重綱と山岡志摩守重長に宛てた手紙[注2]では、「せひ(是非)せひかち(徒歩)はたし(裸足)にても、政宗のくに(国)のはし(端)へころひ入候はんと、心かけ(懸)申候(中略)とし(年)のうへ(上)と申三年ほとわつら(患)ひ候て、たちゐ(立居)さへふちゆう(不自由)にて候(中略)内々よしあき(義光)は(果)て候て此かたハ、一入さんさん(散々)のてい(態)にてお(居)り申候」と苦衷を訴えている。慶長十九年(一六一四)一月兄義光が亡くなった後は苦しい生活が続き、年の上とは言いながら三年前からは病のため体調を崩し、立ち居さえもままならない状況であったことが分かる。徒歩、裸足ででも政宗の国の端に転び入りたい、という言葉に切実な思いがこもる。
義姫が政宗のもとに帰りたいと願ったのは、実は最上家改易以前からである。前年の七月二十日と推定される仙台の資福寺(仙台市青葉区北山にある伊達家の菩提寺)に宛てた手紙[注3]でも、政宗の国へ参り、そこで死にたいと述べている。従来あまり注目されることがなかった手紙なので、全文を掲載する。
保春院(伊達輝宗夫人・最上氏)消息 資福寺宛 (元和七年ヵ)文月20日
仙台市博物館所蔵
※写真は「歴史館だより31」参照。
なをなを(猶々)、此くに(国)も、あとあと(後々)の人之心も(持)ちハ、ゆめゆめ御入なふ候間、何事ニつけ、たの(頼)ミなふ候、さりとてハさりとてハと、たの(頼)ミまいらせ候、以上、
わさ(態)と使して申まいらせ候、うけたまハ(承)り候へハ、ちかちか(近々)ニまさむね(政宗)江戸へ御のほ(上)りのよしにて候、これニより、かねてよりたの(頼)ミ入申候ことく、ハれら(我等)事とし(年)もふかふか(深々)よ(寄)り申候ニ、三ねん(年)にむし(虫)をハつら(患)い申候、此頃ハ一しほ(入)つよ(強)ふ候間、何とも何ともあや(危)ふく思ひ申候間、さりとてハさりとてハ、そこもと御くに(国)の内へまいり、とにもかくニも、は(果)て申度候間、いわミとの(石見殿)ニ、ハれら(我等)心中御物かた(語)り候て、何とそ何とそとりな(取成)し、御そこい(底意)をうけられ候やうニ、おほ(仰)せ候て』可給候、ハけハけ(訳々)の事ハ、ふミ(文)にハ申かね候間、くハ(詳)しく使ニ申候間、よくよくき(聞)かせられ、御ことハりたの(頼)ミ入候、こゝもとめいわく(迷惑)、よろつ(万)ニたいくつ(退屈)申事もさしおき、たゝたゝけふ(今日)あす(明日)のやうにて候間、その事までニ候、むし(虫)ゆへ、ふ(臥)せり候て、かきミた(書乱)し候、よ(読)め申ましく候、めてたくめてたく、かしく、
(元和七年ヵ)文月廿日
もかミ(最上)より
しふく(資福)寺へ こさいしやう(小宰相)
人々
〔訳〕
わざと使者をして申し上げます。お聞きしたところ、近々政宗が江戸へお上りとのこと、これを機に兼ねてお頼み申しておりましたが、私も大分年寄りとなり、三年程虫を患って(虫気=癇)おります。此の頃は一段と酷くなり、命さへ危うく感じております。是非とも是非とも、そちらの国の内へ参り、とにもかくにも果てたいと願っておりますので、石見殿に私の心中をお伝えいただき、何卒何卒(政宗に)私の心の奥をご理解いただけるよう取り成しお願い申し上げます。詳しいことは手紙には書けませんので使者に伝えてあります。よくお聞きになられお取次ぎをお頼みします。こちらでの難儀や退屈はさて置き、唯々今日か明日かとばかり毎日を送っております。虫気で臥せっているため、乱筆・乱文でお読みになりにくいかと存じます。めでたく、かしく。
猶々、この国(山形藩)も後々の人の気持ちは到底分かりません。何事につけ頼りなく感じております。(そのような訳で)どうしても、お頼み申し上げる次第です。以上。
差出人の「小宰相」は義姫の侍女。高齢のため侍女に代筆させたのだろう。乱筆・乱文を詫びているが、どうして、教養を感じさせる見事な筆跡の仮名消息である。「石見殿」は政宗の側近茂庭石見守綱元である。文中の『伊達家文書』では、この手紙を資福寺の虎哉和尚(一五三〇〜一六一一)に宛てたものとしている。しかし、虎哉が資福寺の住職を務めるのは天正十三年(一五八五)十二月まで[注4]であり、これは当たらない。前述の義姫が片倉・山岡に宛てた手紙と内容が重複することから、元和七年のものと推定される。ちなみにこの年、政宗は八月二十日に仙台を発ち同二十八日に江戸に着いており(「治家記録」)、手紙の内容とも一致する。元和七年とすれば資福寺の住職は虎哉の法嗣、祝峰和尚か。
「かねてより頼み入り申し候ごとく」とあるように、これ以前から義姫は政宗のもとへ帰りたいとの希望を政宗側に伝えていたことが分る。それは政宗本人ではなく、ここに見られるように、伊達家ゆかりの寺である資福寺や政宗側近の茂庭綱元を通して行われていたと考えられる。綱元は元和四年夏、政宗の五男宗綱の菩提を弔うため高野山に入り、入道して了庵高吽と号していた。同六年六月頃仙台に戻り、引き続き側近として政宗を補佐した。当時は「茂庭石見入道」[注5]と呼ばれていたようである。
綱元は天正十八年四月の「母による政宗毒殺未遂事件」と「政宗による弟小次郎殺害事件」の直後に、政宗から内密の手紙を受け取り、事件の詳しい経緯を知らされた人物である。これについては既に『歴史館だより』30号で紹介したところである。綱元は政宗から二つの「事件」が、実際は政宗と母による狂言であることを知らされていた可能性がある。このため山形へ出奔した義姫との連絡は綱元に任されていたのだろう。
袖追書(追伸)にある「山形藩も後々の人の気持ちは到底分かりません。何事につけ頼りなく感じております」とは、兄義光亡き後の最上家内部の対立、内紛への不安だろう。義光の跡を継いだ二代藩主最上家親は元和三年六月、三十六歳で急死(変死)。三代目となった家信(義俊)は十三歳だった。
仙台へ帰る
義姫がお付きの者たちと山形を発ったのは九月十一日[注6]である。仙台からは義姫一行を迎えるため大勢の人数が派遣され、道中で使用する食糧や物資も送られた。当初は十日に発つ予定であったが、山形城請取のため幕府から派遣された上使本多正純と永井直勝に挨拶するため一日遅れたのである[注7]。
一行は笹谷峠を越え砂金(宮城県川崎町)を通り、秋保(仙台市太白区)、愛子(仙台市青葉区)を経て根白石(ねのしろいし/仙台市泉区)の御仮屋(満興寺境内)に入った。この御仮屋は政宗が近くを流れる七北田川へ川狩(鮎漁)に訪れたときの宿泊所(別邸)であった。義姫は約一カ月ここに滞在した後、十月初め頃に仙台城下の屋敷へ移る。ただ、その場所は不明である。想定されるのは仙台城の北、後の二の丸の辺りか。当時この場所には政宗の子どもたちの屋敷があった。元和六年に江戸から移った長女五郎八(いろは)姫の屋敷(西屋敷)もあった。いずれ城の近辺であったろう。
義姫と政宗が二十八年振りに再会するのは、政宗が江戸から仙台に帰る十月二十四日以降である。
[注]
1 米沢城内には「西館」も在り、家督相続以前の政宗は「伊達西殿」(『大日本古文書伊達家文書』三一七号。以下『伊達家文書』と略す)と呼ばれていた。
2 「片倉代々記」(『白石市史4 史料編(上)』所収。原本は仙台市博物館蔵)。なお「治家記録」にも採録されている。
3 『伊達家文書』三二六九号。
4 虎哉和尚「年譜」「行状」(『訓注 虎哉和尚語録』所収。覚範寺 、平成二十二年刊)による。
5 『仙台市史 伊達政宗文書』二〇三四号、二二三四号など。
6 「梅津政景日記」(『大日本史料 十一編之二十一』)によると九月十一日「政宗様之御袋、今七つ時山形御立なされ候」とある。
7 (元和八年)九月十日付茂庭了庵宛小宰相消息(登米市歴史博物館所蔵「佐沼亘理家文書」)による。
■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより31」より
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2024.11.29
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最上義光歴史館
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